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山口瞳 著「私の根本思想」

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。。。


今日のブログは、
たいせつなお客様との共有と
個人的な保存の為です。

長文ですので興味のない方は、スルーしてください♪

、、

私は作家山口瞳さんの大ファンです。
今日は
昭和60年代初期に書かれた戦争に関する随筆。

絶版のようでしたので
全文を書き起こします(段落は読みやすいように変更しています。頑張りました。)。
(※個人の政治的な意図は全くありません~。)



お時間ある方は読んでくれたらとっても嬉しいです。
後半の圧倒的な、ことばの力。
30年経っても色あせません。


山口瞳
「木槿の花」(新潮文庫)より
山口瞳 著「私の根本思想」_c0179935_09321135.jpg

「私の根本思想」


一昨年の一月、中野孝次さんの提唱によって「核戦争の危機を訴える文学者の声明」というアピールが行われた。
私は、これに参加しなかった。
また、なぜ、参加しないのかという問いにも答えなかった。

核保持については、私はこれに反対する。
しかし、それ以前に、軍隊(人殺し集団)というものがあるかぎり、行きつくところまで行ってしまうはずだと考えている。
根本を亡ぼさないかぎり悪は亡びない。
そう思って中野さんの呼びかけには応じなかった。

私は争いごとが嫌いだ。
嫌いというより苦手なのかもしれない。
会社員同士の争い、町内のゴタゴタ、兄弟喧嘩、すべて駄目であって逃げ腰になってしまう。
従って、戦争なんて飛んでもない話であってマッピラゴメンだ。
核兵器を使用するか使用しないかなんて段じゃない。

あらゆる武器というものが、生理的にも嫌いだ。
軍艦も厭(いや)、爆撃機も戦闘機も厭、大砲も厭、機関銃も厭、小銃も厭、ピストルも厭、剣も厭、飛び出しナイフ厭だ。これは本当に見るのもイヤだ。
とても核兵器なんてところへ考えが届かないのである。

大橋巨泉さんは、遊び好きスポーツ好きの人であるが、猟銃だけは持つ気がしないと言う。
こんな狭い日本で猟銃を使うことは危険であり、猟銃は日本ではほとんど意味をなさないと言う。
その限りにおいて私は大賛成だ。
ああ、これで日本から武器が一丁減るなと、すぐに思ってしまう。


。。


               
山陰地方の山の中で終戦をむかえた。
私は十八歳であり陸軍二等兵だった。
兵隊は睾丸(キンタマ)を抜かれ、日本の婦女子は、すべて凌辱(りょうじょく)されるという噂が流れた。
流言蜚語(ひご)の類であるが、いまだから笑って話せるのであって、そのときは多くの人がそれを信じたのである。
少くとも私の所属する小隊では全員が信じてしまった。
娑婆(しゃば)では髪を切って男装した女性もいたと聞いている。

私は覚悟した。
しかし、キンタマを抜かれるとはどういうことなのか、私にはまるで見当がつかない。
軍隊では、「小隊長殿、キンタマを抜くということは、具体的に言うとどういうことなのでありますか。
その結果、どういうことになりますか」
といった質問は許されないのである。

私は、戦争に負けたのだから、そういうことがあっても仕方がないのだと思った。
殺されても仕方がない。
戦争とはそういうものだ。

殺されるよりはマシじゃないか。
キンタマがなくても本を読んだり絵を描いたりすることは出来るだろう。
婦女子が凌辱されるのは辛いが、これも仕方がない。死ぬよりはマシじゃないか。
実際を言うと、私には、凌辱ということの意味もよくわかっていなかったのである。

キンタマを抜かれると、なにしろ肝心な場所だから死ぬかもしれない。
むこうも軍人だから荒っぽいことをするだろう。
しかし、銃殺されるよりは助かる率がある。
そう思った。
なにしろ「一億火の玉となって最後の一人になるまで戦う」という教育が骨身に徹していたのである。
それが負けたんだから、容易なことでは家に帰れないと思っていた。
 
私は、キンタマを抜かれるということの意味はわからないままに、やられるときの怖しさ痛さを毎夜思い描いていた。
そのときに想像した痛覚といったものが、いまでも後遺症となって残っている。
 
私たちの部隊は、戦後一カ月以上も山の中に籠っていたのであるが、何の沙汰もなかった。
断乎抗戦を続けると引(ひ)き攣(つ)った顔で叫んでいた中隊長の顔も、だらしなく解(ほど)けていった。
そのうちに「相手は文化国家だから、そんな野蛮なことはやるめえ」
というふうになっていった。
 

。。。


               
そうして、だから、私は宦官(かんがん)になってしまった。
精神的なショックが、そういう形で残った。
兄弟喧嘩は厭、ピストルでさえ見るのも厭という男になってしまった。
 
私は女々しい男になった。
いや、宦官だから中性か。
卑怯未練の男である。暴力団員ふうの男に搦(から)まれると、ただちに逃げてしまう。
いかに相手が理不尽であっても、路上で人と戦ったことがない。
 
こういう男の言うことだから、私の意見に賛成する人は一人もいないだろう。
そのことは承知している。



承知しているが、敢えて言う。

我が国の防衛費が、GNPの一パーセント二兆九千四百三十七億円(昭和五十九年度)というのは、いったい、どういうことなのか。
専守防衛であるという。
いったい、われわれは何を守るのか。守るべき祖国といったものの実体は何であるか。
その祖国はわれわれに何をしてくれたか。
税金を徴収するだけではないか。
といったようなことを以前に書いた。



ふたたび言う。

いったい、どの国が、どうやって攻めてくるというのか。
それを具体的に教えてもらいたい。
攻めてくるのはソ連軍なのか、中国軍なのか。


いわゆるタカ派の金科玉条とするものは、相手が殴りかかってきたときに、お前は、じっと無抵抗でいるのか、というあたりにある。
然(しか)り。



オー、イエス。

私一個は無抵抗で 殴られているだろう。
あるいは、逃げられるかぎりは逃げるだろう。
「○○軍が攻めこんできたら、家は焼かれ、男はキンタマを抜かれ、女たちは凌辱されるんだぞ」
いいえ、そんなことはありません。
私の経験で言えば、そんなことはなかった。
人類はそれほど馬鹿じゃない。


 
かりに、○○軍の兵士たちが、妻子を殺すために戸口まで来たとしよう。
そうしたら、私は戦うだろう。書斎の隅に棒術の棒が置いてある。
むこうは銃を持っているから、私は一発で殺されるだろう。

それでいいじゃないか。


それでいいと言う人は一人もいない。
だから、二兆九千四百三十七億円という防衛費が計上されることになる。
私は、元来がケチだから、その二兆九千四百三十七億円が惜しくてならない。
その防衛費をどうするか。
かりに私が中曽根康弘なら、それを「飢えるアフリカ」に進呈する。
そうすれば、
自衛隊は演習ができなくなるから、人殺しの稽古のために誤って自分が死ぬという事態は起こらなくなる。
それだって、
十人やそこらの人命が助かることになる。
人は、私のような無抵抗主義は理想論だと言うだろう。


その通り。
私は女々しくて卑怯未練の理想主義者である。




私は、日本という国は亡びてしまってもいいと思っている。
皆殺しにされてもいいと思っている。
かつて、
歴史上に、人を傷つけたり殺したりすることが厭で、
そのために亡びてしまった国家があったといったことで充分ではないか。



そんなふうに考える人は一人もいないだろう。
私は五十八歳になった。
これが一戦中派の思いである。
戦中派といったって様々な人がいるわけで、私は同じ考えの人に会ったことがない。

 
二兆九千四百三十七億円という防衛費を「飢えるアフリカ」に進呈する。
専守防衛という名の軍隊を解散する。
日本はマルハダカになる。


こうなったとき、どの国が、どうやって攻めてくるか。
その結果がどうなるか。

 
どの国が攻めてくるのか私は知らないが、
もし、
こういう国を攻め滅そうとする国が存在するならば、


そういう世界は生きるに価しないと考える。




私の根本思想の芯の芯なるものはそういうことだ。


。。。





大町良いとこ一度はおいで♪





by nico19740128 | 2014-08-15 09:54 | 徒然なるまま